05
2015

マグリット展の感想、続き~<見えるようにするもの>が<隠すもの>~

CATEGORYアート
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先日、マグリット展の感想として、シュルレアリスト(超現実主義者)たちが追求したのは、現実離れとしての「シュル(超)」の方ではなく、むしろ現実以上にありありとした<存在感>の方だったのではないか、という事を書きました。

後で知りましたが、専門家もそうした解釈をしているようです。
巖谷 國士『シュルレアリスムとは何か』 (2002 年, ちくま学芸文庫) という本を見つけたのですが、内容紹介によれば、「現実に内在し、ときに露呈する強度の現実としての超現実 ― シュルレアリスム」という事が言われているようです。
この本は、そのうち時間のある時に読んでみようと思います。


私たちの普段の意識は、存在を習慣的に、既存の概念や常識でもって見ています。
しかし、対象が思いがけない様相で現前する時、私たちのそうした表層意識の枠組みを破り、存在自身の存在性を露わにしてくるところがあります。

シュルレアリストたちが無意識や夢の世界に接近したのは、日常性や習慣性の中に頽落した意識の枠を破ったところに、そうした存在性が現れると考えたからではなかったかと思います。
つまり、表層意識による強制(「これは普通、こうであるに決まっている」というような・・・)を受けない仕方で対象が現われる事を模索したのでしょう。

ところでこれは、どのようにすれば、存在がよりありありと現われるか、という存在の問題です。


                  ◇


これに対して、マグリットという人は、その先に全く別の一歩を踏み出した人だと思います。

それは、認識論的な方向への一歩です。

マグリットの思索は、<存在するもの>(客体)の問題から、<認識作用>(主体)の問題へと進んでいて、ここがマグリットの面白いところだと思いました。

(※ もし偶々ご関心のある方がいらしたらご感想を伺ってみたい気もしますので、今回のコメント欄は開けておきますが、記事が長くなりますので、いつもコメントをくださっている皆様、どうぞ適当にスルーしてください。)



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『人間の条件』(1933年)


1938年にされた講演『生命線』の中で、マグリットは上の絵について語っています。
(引用はすべて、今回のマグリット展のカタログからです。)

「窓の問題が『人間の条件』を生み出しました。私はある部屋の内側から見た窓の前に、絵画そのものが覆いかくしている風景の一部を正確に表している絵画を配置しました。この絵画の上に表された木は、その後ろ、部屋の外に位置する木を隠していました。見る者にとって、木は絵画の上、部屋のなかにあると同時に、思考の上では、実際の風景のなか、部屋の外にあったのです。私たちはこのようにして世界を眺めます。私たち自身の外にあるものとしてみると同時に、われわれの内には世界の表象しかもたないのです。」



私たちがものを見る時、私たちはそれが外の世界に存在しているものとして見ていますが、実際に私たちが自分の内にもっているのは、網膜に映った映像だし、それについての自分の理解、「表象」です。

この絵を見る時、私たちはキャンバスに描かれた木を見ながら、それが窓の外の景色だと思って見ます。
ちょうどそのように、私たちは自分の中の「表象」を見ながら、自分の外の世界がその通りのものだと思って見ている、ということをマグリットは言っているのです。

後でもう一度この問題に戻りますが、これは哲学の議論で言えば、「素朴実在論」(naive realism)に対する批判的視点なのです。

更に言えば、実際には、キャンバスの後ろに隠れている風景は、見えておらず、そこに木はないかもしれません。



この絵のテーマがもう少し発展したものが『野の鍵』(1936年)という下の絵で、割れた窓ガラスの破片に、後ろの風景と同じ風景が描かれています。

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『野の鍵』(1936年)


窓ガラスが割れる前は、人は窓ガラスに描かれている絵を見ながら、外の風景を見ていると思っていた、ということになります。



『ある聖人の回想』(1960年)では、カーテンの内側に風景が描かれています。

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『ある聖人の回想』(1960年)


カーテンというのは、隠すものです。
上の絵では、外の風景を隠して見えなくするはずのもの(カーテン)の上に、風景が見られています。
『人間の条件』のキャンバスや、『野の鍵』の窓ガラスに風景が見られていたのと、同じテーマだという事が分かります。

しかし、ここではカーテンの裏には暗がりがあるだけで、私たちがカーテンの上に見ている画像と、その背後に実在する空間とは、もはや一致していません。
つまり、この絵でカーテンは、背景を隠すものであると同時に、鑑賞者に青空の広がる情景を見せるもの、という役割をしています。

そして、鑑賞者が見ているのは、実際の空間とは異なる画像です。



下の『上流社会』(1965-66年)という絵でも、同様です。

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人のシルエットの内側に風景が描かれています。
人の姿も、本来は後ろの風景を隠す存在です。

ところがこの絵では、人影になっているはずの所に、風景が見られています。
そして、上の『ある聖人の回想』と同様に、この絵で人の背後に広がっているのは暗がりです。

つまりこの絵でも、人の姿は、背後の空間を隠すものであると同時に、それとは別の画像を見せる役割をしています。



『大家族』(1963年)という有名な絵では、鳥のシルエットの内側に青空が描かれています。

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『大家族』(1963年)

この場合も、鳥は鑑賞者から見て、後ろの薄暗い空を隠す存在ですが、白い雲の浮かぶ青空という、別の画像を見せる役割をしています。



下も有名な絵で、『白紙委任状』(1965年)という作品です。

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この作品について『ライフ』誌の記者に訊ねられたマグリットは、次のように答えています。

「これはアマゾン、馬に乗って進む女性です。タイトルは、空間移動に関係しています。目に見えるものは、常に他の目に見えるものを隠すことができます。女性は4本の木を通過して、これらの木を隠します。他の木々は彼女を隠します。白紙委任状とは、彼女にやりたいようにやることを認めるものです。目に見えるものは、隠されて目に見えなくなることがあります。しかし、目に見えないものはけっして隠されません。それは、おそらく無視されるのです。現れないのです。・・・」



物の影になって隠れている所は、見えていません。
見えていない物は無視されています。
本当は、見えているのとは別のものが存在しているかもしれません(「白紙委任状は、彼女にやりたいようにやることを認めるものです」)が、それは無視されているのです。



私たちに<存在するもの>を見えるようにしているもの(キャンバス、窓ガラス、カーテン、人、鳥、木)が、<存在するもの>を隠しているものでもある、ということを、マグリットは繰り返し指摘しているように見えます。

<見えるようにするもの>が<隠すもの>でもあるというのが、ポイントです。

<私たちに見えるようにしているもの>というのは、人間の認識における<主観>の働きの事で、いわば目の<網膜>のようなものだと考えると、分かりやすいかもしれません。
それは対象の<映像>を見せますが、<映像>が対象の真の在り方(本体)なのかどうかは分かりません。

そして<映像>を見せることによって、<本体>は隠されたままになり、また、人は隠されているものがある事を自覚しないままになります。



こうした事は、認識論的な問題で、哲学的な問題です。

先にも触れたように、哲学では、対象が見えている通り(認識されている通り)に存在しているとする考えを、「素朴実在論」と言います。

そのような考えに対して、たとえばカントは、私たちに認識されているのは、「物自体」ではなく「現象」で、それは「主観」が構成したものだ、と言いました。
それは、「主観」の側に具わる道具立てのようなものによって作り上げられたものであり、私たちは物の<本体>そのものを認識しているわけではないのです。



こうした事にマグリットが気付いてことは、『傑作あるいは地平線の神秘』(1955年)という作品ついて、マグリット自身が語っている事から明らかです。

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『傑作あるいは地平線の神秘』(1955年)


この作品について、後にマグリットは次のように述べています。

「それから、パラドクスがあります。たとえば、ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持ちます。それは、彼の月になります。だから私は、3人の男の上にそれぞれの月がかかっているところを描いた絵を描きました。しかし、私たちは本当は月は一つしかないことを知っています。これは哲学的な問題です。―どうやって単一性を分割するか。世界は単一性でありながら、この単一性は分割できるのです。このパラドクスはあまりに巨大なので、一つの傑作です。だから私は、私の絵を『傑作あるいは地平線の神秘』と呼ぶのです」(1966年の『ライフ』誌によるインタヴュー。)




私たちは、眼前に広がる世界を純客観的に見ているわけではありません。
それぞれの人が見る仕方で、見ています。
意図することもなく自然に、自分が身に付けた習慣や知識などから、理解されるままに、見ています。
「ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持つ」のです。

万人に共通の<一つの月>が月の<本体>だとすると、3人の人に見えている<3つの月>は月の<現象>、つまり<現われ>です。
<現われ>というのは、それを見る主観に、そう現われて認識されるという事です。

これは、一番上に乗せた『人間の条件』という絵に関してマグリットが指摘しているのと同じ事実です。
そこでも、マグリットは

「私たちはこのようにして世界を眺めます。私たち自身の外にあるものとしてみると同時に、われわれの内には世界の表象しかもたないのです。」


と言っていたのでした。
ここで、「われわれが内にもつ世界の表象」と言われているのは、3人の男が月について持つ「彼自身の考え」に当たります。


人は自分のうちに生じる表象を見ながら、その通りのものが外の世界に実在していると思っています。
でも、これは「素朴実在論」であって、カントによれば、人には<本体>そのものは見えていません。

マグリットは、人が見ているのは物の<本体>ではなく、「表象」(=現象)だという事に気が付いています。
「表象」を見せるもの ― つまり、<主観>の働きの事で、いわば目の<網膜>のようなもの ― は、<本体>を隠すものです。
そして、人は<本体>が見えていない事を自覚していません。


さらに神秘的な事(あるいは「傑作」な事)としてマグリットが指摘しているのは、人それぞれが自分の内に抱く「表象」が、それでも単なる妄想ではなく、まさに一つの<本体>の現われでもあるという事です。



哲学者でもあるまいし、画家でこんな事を言いだす人がいたという事に、私は驚きましたし、マグリットという人に興味が湧きました。


(※ <見えるようにするもの>が<隠すもの>でもあるというポイントは、一般的に私たちの<認識>の特徴で、たとえば私たちは特定の仕方で対象を見て理解する時、その対象の別の在り方を見なくなります。

つまり、私たちの理解力や表象作用という<対象を見えるようにするもの>が、<対象を隠す>ものでもあるということです。

この事実を無視しないことは、一般的に重要な事だと思います。

特定の仕方で<見えるようにするもの>は、別の仕方では<見えなくするもの>です。

話はちょっと飛びますが、マスコミの問題も、こういう事だと思うんですよね・・。

何を伝えて何を伝えないか、という時点で、既にはやくも、伝える側の主観的な判断が入っているわけで・・。

したがって、示されている事が客観的な<事実>だと思うのは、「素朴(naive)」な見方です。)


                  ◇


ここで、一般にシュルレアリストたちは、存在がよりありありと現われる仕方を探求したのだ、という最初の論点に戻ります。
上の認識論的な視点からすると、よりありありと現われている存在でさえ、一種の<現象>であって、<本体>ではないと言ってしまうことができます。

つまり、<より強烈な存在>、<より真なる存在>と言っても、それは比較の問題にすぎなくなり、より強烈な、より明瞭な意識に<現われている>(言い換えれば<見えている>)対象だということになります。
結局、どちらも私たちの主観が受け取る仕方に即して現われているものだということです。

これに対して、人間の認識というものの、こうした仕組み、構造についての指摘は、端的な<事実>の解明です。
どう現われるか、どう見えるか、どう思われるか、という主観的な問題ではありません。
まして幻想でもイメージでも夢でも幻覚でもありません。
これは、単なる事実の指摘であり、この事実は、いかなる主観的、心理的な思いからも独立しています。

そうした悟性的な思惟による乾いた<事実>の発見が、マグリットの絵画的表現の源泉の一つとなっているなぁ、というのが、今回マグリット展を観た感想でした。


                  ◇


マグリットは、自分の絵が精神分析的に解釈されることを拒んだそうですが、かなり思索的な人だったのではないかと思うと、それは当然だっただろうという気がします。

13歳の時にお母さんが自殺しているそうですが、そんな事からレッテルを貼られて、心理的に絵を解釈されるのも、そりゃあ、嫌だったでしょうね。


ウィキペディアを見ると、マグリットの生涯について、次のように記述されていました。

「マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたといい、『平凡な小市民』を意識して演じていたふしもある。」



「意識して演じていた」かどうかは分かりませんが、こうした人物像も、なるほど、という気がします。

考えてみれば当たり前の事をきっちり考える人だったとしたら、人から変な目で見られたくはなかったのではないでしょうか・・笑


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6 Comments

凛  

こんにちは。
マグリット、美術の教科書で見て以来、彼の世界の不思議にとても惹きつけられてきましたが、こんなに深い解説を読ませていただくと、ここまで深かったのか!と驚きまさした。
Arianeさんの本領発揮ですね。
ありがとうございました。

2015/07/05 (Sun) 20:34 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: 凛さん

凛さん、こんにちは^^
コメントくださって、ありがとうございます。

凛さんも、マグリットがお好きだったんですね^^
こんな長たらしい記事をお読み頂けただけでも、嬉しいです。

シュルレアリスムの事は、数十年間ろくに思い出さなかったのですが、今になって哲学の知識から見てみると、昔に比べて全然よく分かるような気がしました。
特にマグリットは、そういうところのある人だと思いました。
今回、マグリット展に行ってみて良かったです。
それにしてもマグリットは凄い人気で、展覧会場の混雑は並外れていました。

2015/07/05 (Sun) 22:21 | EDIT | REPLY |   

yuccalina  

こんばんは。

続きを楽しみにしてました。

実体を見てるのではなく、受け手の意識でしかない、のはヨガの世界でも言われてますし、常識とは人それぞれが持ってる様々な意識の中の、最大公約数ですよね。時の流れを、一瞬一瞬の集合体みたいに捕らえるところも、ヨガ的に思えて、とても興味深かったです。

ところで、私がマグリット展を見たのは、旅先のブリュッセル王立美術館ででした。どうりで、解説を読んだ記憶が全くなかった訳です。多分英語ではあったんでしょうが、スラスラ読める程ではなかったので。展覧会が終ったばかりで何ですが、次にあったら是非見に行きたいです。私も混雑は苦手なんですけどね。

2015/07/06 (Mon) 20:25 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: yuccalina さん

yuccalina さん、こんにちは^^
コメントありがとうございます。
続きを楽しみにして下さっていた方がいらしたとは、嬉しいことです。
マグリット展が終わった後で、くだくだ論じるようになってしまいましたが、今回マグリットを観たことは、私自身にとっては随分刺激になりました。

ヨガでも、見られているのは実体そのものではなく、受け手の意識だということが言われているのですね!
常識というのは、ある程度、こういうものだと教えられた線に沿った見方なのでしょうねぇ。
常識や良識を踏まえるべき領域というのも私は重んじたいと思いますが、いろんな意識に現われる、いろんな対象というものがあるのではないかと思います。
そして、「現われている」というのは、何にしろ「それを表象している意識がある」ということで、本体そのものではないんじゃないか、と。

ところで、カントは「物自体」は認識できないと言ったわけですけれど、いわゆる「認識」とは異なる仕方で、対象そのものを把握できるとする思想も、別にあることは、あるのです。
それは、主観とか、自我というものを、全く脱落したところでの話ですが。

2015/07/06 (Mon) 22:56 | EDIT | REPLY |   

korva  

Arianeさん、こんにちは^^
とても面白い記事でした。

オーディオをやっていても、よく逆説的な場面に出くわします。
普通、人の聴覚は20000Hzまでしか聴こえませんが、
これは、加齢や大きな音を聴くことで、段々と衰えていきます。
音が良いという評判のスピーカーが、実際に聞いてみると、
高域での付帯音が多くて酷い音だったり・・・
オーディオマニアは、大音量再生が好きだったり、
高齢の方が多かったりして、聴覚の衰えた人が多いですが、
そういう人ほど、知識が豊富で、文章が達者で説得力があったりするので、
オーディオの世界は妙な具合になっています。
しかし、考えてみれば、
そういう劣化した聴覚に、良い音に聴こえるオーディオが、
良いオーディオだとも言えるわけですね・・・

人は、有限のセンサーを通して、内的世界を構築していて、
客観的な世界ではなく、主観的な世界を見ているということですよね。
人は、生まれてから死ぬまで、
自分の主観以外のことは何も経験できないのですよね。
なので、主観の範囲を狭める、フィルターのようなものを
外しておく方がよいと思いますが、
以前、Arianeさんが、
正反対の意見もすぐに却下せずに、
矛盾した2つの考え方を心に抱えていると、
そのうち、見えてくるものがある、
というようなことをおっしゃっていましたが、
これは私も、よく感じます。

個々の人間は、一つの言葉のようなものだなと感じます。
一つの単語が全ての意味を持つとすれば、
その単語は、何の意味も持たないのと同じことになってしまいます。
個々の単語が意味を持つためには、意味を限定する必要があります。
ということは、「全て」というのは「無」ということかもしれませんし、
それぞれの意識も、
局限化した状態でしか存在できないのかもしれませんが、
意識が広がると、局限的な尖った状態が、両面性・両極性を帯びてきて、
主体であった自分が、観察者である自分に変容するような気がします。

2015/07/07 (Tue) 09:49 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: korva さん

Korva さん、こんにちは^^
いつもコメントありがとうございます。
面白がってくださる方がいらして、良かったです^^

なるほど、オーディオでも、聴覚と、そこに聴こえる音との相関関係というものがあるわけですね。
良いオーディオ機器を作られるご苦労というのも、おありでしょうね。

感覚の対象でも、思考の対象でも、(あるいはスピの領域まで入れるなら、霊感の対象でも、)客観というものは、主観との相関関係にあって、対象というのは、それぞれの意識に応じた現われ方をするのだと思います。
おっしゃるように、私たちは、いつも主観のフィルターを通じてものを見ているとも言えると思います。
そして、ある特定の仕方で見えると、そうでない仕方では見えないのだ、というのが、今回上の記事で書いたことでした。

Korva さんはお察しが良くて、ご指摘頂いた点は、その先の論点に及んでいますね。
上のyuccalina さん宛のコメントの最後に書かせて頂いたことに関連していますが、「それでは、主観というものが全くないところでは、何があるか」ということです。
いかなる見方も離れたところというのは、原理的には、次にあらゆる見方が可能になるところでもあります(それが、どのレベルでどの程度可能かという事は、いろいろ議論もあるでしょうけれど)。
私たちが生きていて見聞きする様々な事柄は矛盾や対立に満ちていますが、自分の主張を押し通すのではなく、あくまで論理的整合性を追究しようとするならば、一旦、どのような見方も離れるところに立って、そこで見えてくるものを待つ、ということが必要になると思います。
Korva さんは、経験的にご存知ですよね^^

おっしゃる通り、<全て>と<無>とは同じものになってくるところがあって、わりと西洋の一般的な見方では<全て>を<存在>と見ますが、思想によっては、<全て>であるものは、その中の特定の何でも<無い>から、<無>だというように捉える見方もあります。
そうした考え方によると、そこは主観も客観もないところ、ということになってきます。

私たちも、このようなところに立って、ものを見ることができれば、ものが自己自身のありのままの姿を現す、という事も起こり得るわけですが、対象の<姿が現れた>ときは、それは既にある種の<現象>で、ある種の主観が見ている、ということになるでしょうね・・。
これは普通の意識に比べて、より明瞭な意識だし、対象も<真実在>として捉えられるもの、と言って良いと思いますが、それでも「これは<現象>だ」という、一歩引いた見方が必要だろう、と思っています。

あらゆる意識と存在とは、元来、こうした<全>でも<無>でもあるところからの<局限化>だし、そこから分かれてきたもの、と捉えることができると思います。

2015/07/07 (Tue) 23:55 | EDIT | REPLY |   

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