09
2014

哲学の話 / 早朝の首都高湾岸線

CATEGORY考え事
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ごくたまにですが、哲学っぽい事を書いていますので、私のもともとの専門が哲学だということをお察しになっている方もおありかもしれません。

こちらのブログで具体的な事は書けませんが、哲学が何をする学問で、哲学を学ぶ人たちは何を身に付けなければならないのかということが、一般的に全く顧みられていないと思いまして、今日は哲学の本質と意義と思われる事について、私の考えを述べさせて頂こうと思います。

哲学がどういうものか知られていないために、別の事を哲学に期待して、すぐに失望してやめてしまったり、最初から関心を持たれなかったりする方も多いと思います。

そこで、まず哲学に似て非なるものとの異同について。


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哲学と混同されがちなものに、人生訓のようなものがあると思います。
哲学も人生観を述べる際には、人生訓と共通する面がありますが、次の点で異なっています。

哲学と言えるためには、人生観を世界観の中に位置づけ、全体を統一する理論的な体系がいりますし、通常は、哲学史上の何らかの立場を批判的に継承しているという「学」としての面が必要です。

(ただ、哲学史上の知識がないとものを考えられないのは哲学研究者であって哲学者ではないという意味では、知識は哲学の重要な要素ではないと私は思います。)

一方、人生訓は個々人の人生経験に基づいた知恵で、断片的なものであっても充分で、証明も不要です。
そこで、同様の経験をしていたり、同じような問題に直面したりしている人たちに、一言で伝わって、すぐに役立ちます。

そして、人生訓では結論的な事が重要ですが、哲学で大事なのは、結論を教訓のように覚えておくことではなく、ものの見方や考え方だというところがあります。
つまり、哲学において大事なのは、たまに何か良いことを言っている、というような個々の具体的な内容よりも、考え方の方なのです。

これも、哲学書が読みにくいと思われる理由の一つかもしれません。
つまり、哲学ではものの見方そのものが重要であるため、哲学書を読むには、一旦それまでの自分の見方を離れないと、哲学者が何を言おうとしているのか見えてきづらいのです。
役立つ知識を手っ取り早く獲得したいと思って読むと、哲学書は難解なばかりで得るところの少ないものに思われるでしょう。

哲学は世界観の一部として、人生観にも関わるわけですが、人生に関わるというところから、人生訓や、何か生きる上でのポリシーのようなものが「哲学」だというイメージが広がったのかもしれません。
しかし、信念やポリシーを持って立派に生きている人格者をつくるのは、何か教訓なり、経験なり、鍛練なり、信仰なりであって、別に哲学ではないのです。

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次に、心理学との違いについて。
哲学も心理学も、どちらも人間の精神に関わる学問だと言えますが、両者の性質はかなり異なっています。

まず、心理学の根拠になっているのが実験や統計などの<データ>であるのに対して、哲学が根拠とするのは、誰でもちゃんと考えてみれば当たり前だと分かる<事実>です。
その点で、哲学にはデータはいりません。

それから、心理学は基本的に実用的なところで発展した学問で、特定の目的をもっているように思います。
たとえば、精神の病を治すといった目的です。
それに対して哲学が扱うのは考え方全般ですから、何か特定の問題を解決するという目的を持ちません。

ですから、たとえば精神の悩みを抱えて、それを解決する為に哲学書を読むのは基本的に大間違いでして、心理学のカウンセラーや精神科の先生の所を訪ねた方が良いのです。
そうした若者が哲学書を読むと、自分の精神の病んだ在り方を哲学的な概念で肯定して、ますますがんじがらめになって逆効果な場合もあります。
自分では自己肯定感が得られて多少は満足するかもしれませんが、少なくとも他人から見たら、精神の問題が解決しているようには見えていない可能性があります。


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次に、宗教との違いについて。
哲学も宗教も、世界の根本原理を問題にするという共通性があります。

一番違うところは、宗教は救いをもたらしますが、哲学が目的としているのは<救い>ではないという点でしょう。

また、非常に大雑把に言いますが、宗教と異なって哲学は、宇宙の最終的な真理の開示を目指していません。

哲学が構築しようとするのは、勝手な思い込みのない、確かなものの見方に基づく世界観という、極めて控えめなものです。
宗教の立場からは、「故に哲学では不十分だ~」ということになります。

ただ、宗教的な行を通じて悟りを得たいと思われている方の場合も、勝手な思い込みがあると、なかなか先に進まなくて、何十年やってもあまり変わらないということがあるかもしれません。
その場合、哲学的な訓練が役立つと思います。


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以上で述べましたように、哲学というのは、何らかの有用性のために発達した学問ではないのです。
"philosophy"(「哲学」)という語義からして、「知」ではなく、どこまで行っても「知への愛」であり、それは事柄に対する判断内容ではなく、むしろ事柄に向かう姿勢の方だと言えば良いかもしれません。

それでは、哲学の意義とは何なのでしょうか。

既に述べたように、哲学で大事なのは結論そのものよりも、むしろ考え方の方です。
私は、哲学を身に付けることによって得られる最大の益は、思考の健全さを保ち、頑迷な思い込みに陥らないで済むことだと考えています。


また、先ほど哲学には、世界観、人生観の全体を体系づける理論が必要だと言いましたが、そうした考察を通じて養われる、全体の整合性を視野に入れる思考力は、過ちや頑迷を退けるのに役立つのです。

そうした思考力は、単に自分一人の人生を考える場合だけでなく、次のような場合に有効です。


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宗教的、政治的な問題や歴史認識の問題などに関して、「誰が言っている事が本当なのか分からない」といった声を聞くことがあります。

また、一見良さそうな事の背後に大きな利害が動いていて、実際には特定の人たちが言論を誘導しているということが、非常によくあるわけです。
善を心がけてる方々が、偽善を善だと思い込んで、それに多くの時間や労力を費やすのは勿体ないことです。
更に、社会的な意味でも、本当に善き人であろうとするなら、自分の善意を簡単に何かに委ねて、善を装う悪に利用され、結果的に社会の劣化を招かないよう、配慮する必要があるでしょう。

こうした時、哲学的な思考力(つまり、私の言う、全体の整合性を視野に入れた確かな考え方)があると、何がどこまで真実らしいかとか、何にどういう筋書きがあるかとか、どこから先は判断を保留しておいた方が良いかといった見極めが、比較的容易につくようになるように思います。

というのは、嘘や間違い、こじつけは、長い話になってくると矛盾や行き詰まりに合うから、そこで分かるのです。
それに対して、本当の事は、長い総合的な話になればなる程、益々つじつまが合ってきて、説得力が増します。
推理小説などを読んでいても、正しい推理は、すべてを整合的に説明できるものですが、間違っていると、説明できない事が出てきます。
それと同じです。

私たちの普段の思考も同様で、たとえば「これだけは確かな事だから・・・」と思い込んで、矛盾に目をつぶり、説明できなかったり解決できなかったりする事を無視することがあったら、それは本当はどこかで何かが変なわけですから、あまり「確か」と思わずに考え直してみた方が良いのです。

                     
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哲学から学ぶべき事は、部分部分をその都度断片的に感情で判断するのではなく、全体を整合的に見てゆく視点から、前提も含めて不確かな事を吟味し、物事を見直してゆけるような思考法だと思います。

一般的に「これは当たり前だ」と思われている事が、ものを考える前提になるわけですが、それも実は誤った思い込みにすぎない場合がありますから、そこも含めて全体を考え直すという意味では、<根本から考え直してみる>という根源的な思考を行うのが哲学だとも言えるかもしれません。

たとえば、何か受け入れ難いことがあると、「そんなバカな」と言って、聞きもしないで拒絶するという姿勢は要注意です。
自分の世界観の全体を作り変えていくことが、苦手になっているということです。
哲学的な思考を本当に身に付けていれば、自分の知識や考えを見直すのは難しいことではありません。

ですが、何でも考え直し、常識を覆すどんな突拍子もない考えも受け入れれば良い、というものではありません。
たまに、こうした姿勢が“哲学的”と勘違いされていることがあるかもしれません。
考え直してみるのは良いのですが、しかし、その結果、より貧しい世界観に陥るような結論の場合は、かえって受け入れてはいけないと思います。
これも、<全体性>の問題です。

目先の合理性だけで、今まであったものを簡単に切り捨ててしまうような考えにも、<全体性>という観点が欠けている場合がよくあります。
ある事にとって不都合で不合理に見えることがあっても、総合的に考えると、それで全体が機能しているということもあるのです。

もちろん、過去に一度出た結論を、永久不変の絶対的な真理だと思っていて良いというものでもありません。
私たちは生きていれば、常に新しい発見に出会い、自分が接しうる世界の<全体>は、常に広がっています。
新たな経験をし、新たな事実に出会うたびに、常に総合的、整合的に、<全体>を矛盾なく、そして柔軟に考えを進めていけるという思考の健全さが大事で、哲学はそれに貢献するものだというのが私の考えです。


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そうした全体的な整合性を視野に入れることで、過ちに陥りにくくなると書きましたが、私たちはそもそも、真実についてさえ<免疫>のようなものを持つ必要があります。
真実は受け入れた方が良いけれど、かぶれない方が良いのです。

理想にかぶれるのが危険な事だというのも、一般的に意外と認識されていません。

なぜなら、いかに正しい事であっても、いつもそれしかなくなると、やがて執われるようになり、判断を間違え、矛盾や葛藤に陥ることがあるからです。
ある場合に正しい真理でも、状況が異なる場合は、総合的な視点から判断し直すことが知性の働きなのであり、それを行わないのは一種の知的怠惰だと言わなくてはなりません。


                           ◇


今日は、早朝の首都高湾岸線の、こんな美しい画像がありましたので、付けておきます。
このところ、毎日のように見ています。
選曲も良いな~と思います。




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8 Comments

yuccalina  

Arianeさん、こんにちは。

興味深いお話をありがどうございます。私は哲学書の類いは全く読んだことないのですが、ヨガの世界と共通する部分がありそうです。ヨガでは、今の自分を受け入れつつも、型にはめずに挑戦することや、努力することも求められます。また、絶対的価値観を否定し、全ての事象は移ろい無常なので、一つの価値観に縛られるのを否定しています。

しかし、哲学は思考し続けるのに対して、ヨガでは最終的に思考や意識すら手放すようにと、言われてます。

ただ、そこに到達出来るかの結果ではなく、向かうプロセスを大切にするところは、逆に哲学的と言えるのでしょうか。

2014/10/11 (Sat) 11:40 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: yuccalina さん

yuccalina さん、こんばんは^^
話題が話題でしたし、つい長々と書いてしまいましたが、お読みくださって、コメントまで頂きまして、どうもありがとうございます。

そういえば、yuccalina さんのブログで、ヨガでは絶対的な価値観を否定するということが書かれているのを読んで、共感したことがありました。
西洋の宗教では絶対者が実体のある存在者ですが、東洋では「無」とか「空」とか言われるように、特定の実体が絶対視されていないところから、ヨガのような教えも出てくるのかな、と思います。

宗教と哲学の違いとして、哲学は何らかの心境を目指すものではないということを付け加えるのを忘れていました。
ここがまた、哲学の人気のない所以ですねぇ・・。
でも、yuccalina さんがおっしゃるように、ヨガとの共通性がありそうですね。
たぶん宗教的な教えでは、精神的な執われを離れることによって精神の健全性がもたらされるのかもしれませんが、哲学では思考の執われを離れることによって、思考の健全性が保たれるのだと思います。

「思考や意識すら手放す」というのは、とても面白いポイントです。
意外に思われるかもしれませんが、思考することにおいて大事なのは、「思考を手放す」ところなのです。
さすがに、「意識を手放す」ということはありませんけれど。(笑)
哲学書を読む場合でも、人と議論する場合でも、自分と全く違う考え方を理解するには、自分の考えを離れないと無理なのです。
すぐさま人の考えが分かるわけではありませんので、思考の真空状態のようなものが生じるわけですが、そこが非常に大事だと思います。
また、芸術家のインスピレーションのようなものが、哲学者の場合も必ずあると思いますが、そこは「思考する」という仕方で出てくるものではなく、そういう意味でも、思考の本当の醍醐味は、実は思考ではないところにあります。

特に、人と議論する際、自分の考えを離れて相手の話を聞くというのは、訓練で身に付けられることなので、そのためだけにでも、学校で哲学の授業をちゃんとやったら良いような気がしてきます。

こうしてコメントを頂きますと、大分考えが進展しますので、とてもありがたいことです。
どうもありがとうございました。

2014/10/11 (Sat) 23:59 | EDIT | REPLY |   

Korva  

非常に興味深いお話で、大きな共感を持って拝読させていただきましたが、同時に少々耳の痛いお話でもありました(笑)。これから何度も読み返したくなる記事です。こういう難しいテーマについて、素人にも分かりやすく説明できるのは素晴らしいですし、こういうテーマについて、こういうバランスの良い文章が書けるのは、Arianeさんの美的センスが関わっているのだと感じます。美的センスがないと、単なる思考においても、偏ることが多いと感じるので・・・。私は哲学については無知なのですが、自分の思い込みがガラガラと崩れ落ちていくときに感じる、心がより自由になる快感が好きなので、無意識的に哲学的な思考をしている場面も多いようですし、自分の心の安寧のために、自分の魂の救済に関わる部分については、それほどつっこんで考えたくないなぁと言う気分もあるため、知的怠惰に陥って矛盾に目を閉じている場面も多いと感じました。しかし、この魂の救済は、宗教とも心理学とも関係のないところで起こったので、宗教のような根拠のはっきりしない信念体系に囚われることがなかったのは、心の自由を得るためには幸いだったのかもしれません。心理学については、少し勉強したのですが、魂の救済を得る状況は、意図的に作り出せないだろうなという実感があるので、こちらについても、それほど重視しなくなりました。「誰が考えてもそうなるようなもの」は、数学の公式のように、神様も変更不可能な領域なので、思考における誤りを見つけるための、非常に重要なツールだと思います。思想の各部分については、その公式的なものに矛盾を来たさずに構築されなければなりませんが、思想の全体像については、個人の美意識に委ねられるので、人によって全く違ったものになるのだと感じます。素人のたわごとですが・・・

2014/10/12 (Sun) 12:12 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: Korva さん

Korva さん、こんばんは^^
ご丁寧なコメントをくださって、どうもありがとうございます。
共感して頂けるのは嬉しいことです。
たまに哲学を勉強されていなくても、Korva さんのように哲学的なセンスをお持ちの方がいらっしゃることを、とても嬉しく、頼もしく思います。

「自分の思い込みがガラガラと崩れ落ちていくときに感じる、心がより自由になる快感」というのが、いいですね!
そこを快感と感じず、不愉快だと思って、絶対にそうならないように構えている人たちもいますから・・。

Korva さんのような方から「耳が痛い」と言われてしまうとすると、ちょっと怖いですね。
あまり人に打撃を与えたくないと思うのです。
心の問題は大事ですから、哲学者でもない限りは、心的な負担のない程度に考えを進めていくことが必要だと思います。
一般的に、あまり人に心地よいと思って聞いてもらえないのは、哲学の宿命かもしれません。
宗教や心理学は、人が言ってもらいたい事を言ってくれるものだと思いますが、哲学は人が聞きたくないことでも、それが事実だと思うなら言うのですね。
哲学では、人がどういう気持ちになるかが問題ではなく、事実や真実が問題です。
それで、人から憎まれて、死刑になったり迫害されたりした哲学者は、歴史上たくさんいました。(涙)

「魂の救済に関わる部分では、あまり突き詰めて考えたくない」という事で、Korvaさんが具体的にどういう事をおっしゃっているのか分かりませんので(宗教じゃないわけですものね・・)、不適切な話になるかもしれませんが、たまに突き詰めないことがあっても、間違った態度ではないかもしれません。
というのは、人間の知性は、通常は物質的な世界の事柄を対象にしていて、それは非物質的世界の事柄を考えるのには適していないということがあるわけです。
たとえばカントも、神は信仰の対象であって、悟性(人間の知性)の対象ではないと考えました。
カントはちょっと置いておきますが、魂や神の問題を考えるには、物質的な世界において成り立っている理論とは、別の理論を見つける必要があると思います。

また、本文にもちょっと書きましたが、判断を差し控えておくべきことと言うか、時期と言うか、そういった事もあります。
矛盾対立があって、すぐに答えが出ないことがあっても、その事自体は何も問題ではなく、両方あるな~と思って見ていると、その内、全体像が見えてくることがあります。

「思考の公式的な部分は矛盾なく構築しないといけないけれど、全体は個人の美意識に委ねられていて、人によって全然違ったものになる」というのは、全くその通りですね。
それぞれ閉じた体系内では矛盾なく整合性があるのが、きちんとした思想ですが、切り口や道具立て、前提となる文化的思想などによって、全く違うものになります。
例えば、宗教によって同じ事柄について異なる見解が述べられることがあっても、それは当然で、ともかく自己の体系内に矛盾がないということは、どれもそれぞれ正しいと言って良いということだと思います。
ただ、自己の体系内に、こうした場合の他者との矛盾対立をも比較的よく含みこめる構造を持てることが、哲学的だということだと思います。

Korva さんだと、それを「美意識」とおっしゃるのかもしれませんね^^
理論的な美というのは、実に美しいものですよね。

つい長くなってしまいましたが、こうしたコメントを頂けますと、いろいろと考える糸口になって助かります。
どうもありがとうございました。

2014/10/12 (Sun) 22:43 | EDIT | REPLY |   

コウコ  

Arianeさん、こんばんは。

哲学とは何か?実は考えたことはありませんでした。
若い頃はキルケゴール、ゲーテ、ニーチェ、サルトル、ボーヴォワールなど
友人たちと話題にしたことがありました。内容は覚えていないので、表面的だったと言えます。
著作ではゲーテの「ファースト」に感動して何回も読みました。身近な哲学者では梅原猛の著作を何冊か読みました。
哲学に関してはこんな程度なので会話がすすめられず、申し訳ありません。

若い頃から1つだけ考え続けてきたことは、「人間とは何か」でした。
人間に絶望したことがありましたが、そこから救ってくれたのも人間でした。
行き方に関しては、私自身は我がままですが、人として如何にあるべきかは
常に反省しております。
Arianeさんの仰る通り、新しい経験や発見に出会い、物事を見直してゆける
思考法は大切ですね。
これを機会に哲学を教えて頂けたら幸いです。

2014/10/13 (Mon) 21:29 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: コウコさん

コウコさん、こんばんは^^
いつもコメントありがとうございます。

そういえば、実存主義がブームになっていた時代がありましたね!
サルトル、ボーヴォワールは、私が大学に入った頃は、哲学科で扱われることはもう殆どなくなっていて、研究者がいるとしたら、仏文科の方だったと思います。
ニーチェは今でも人気があるようですよね。

「人間とは何か」というのは哲学的な問いですね。
例えば、カントは四つの問いを立てています。
「私は何を知り得るか」、「私は何をなすべきか」、「私は何を望むことを許されるか」という三つの問いのそれぞれが認識論、道徳論、宗教論に相当し、そして、それらの三つの問いが次の一つの問いに収斂する、つまり、それが「人間とは何か」だと言っています。
哲学史の中では、「存在とは何か」という方がより一般的な問いだったかもしれないと思います。
もちろん、その中で「人間としての存在」を論じますが。

コメントを頂いて、どの時代のどういった哲学者を取り上げるかによって、哲学のイメージは結構違うものになりそうだと思いました。
今更ながら、うちにある平凡社の『哲学辞典』の「哲学」の項を見てみましたら、冒頭の方に、「哲学はその性格、内容、方法をめぐっておびただしい異説の対立を示し、一方の肯定は他方の完全な否定を意味し、個々の哲学のすべてに通じる特色は、ただ名前にすぎないという感じをいだかせる・・・」とありました。
ちなみに、この項を執筆されていた方は、科学や社会との関係を中心に哲学の役割を書かれていましたが、それをごく簡単に一言で説明させて頂くとするなら、たとえば諸科学は与えられた枠の中で考えるものだけれど、哲学はその枠組み自体を見直していくもので、人間を与えられた枠の中から解放し得るものなのだということだと思います。
上の私の文章では、「前提も含めて不確かな事を吟味し、物事を見直してゆけるような思考法だ」とか「根源的な思考を行うのが哲学だ」というあたりと関係しています。
たとえば、今ここで簡単な例を挙げてみるとするなら、「民主主義は大事だから・・・」というところから考えるのが普通の思考であるのに対し、「民主主義が大事なのはそもそも何故なのか、民主主義がどういうものである限りで、それが大事か」といったところから考えるのが哲学的思考だと言えると思います。

「思想」と「哲学」の違いを言うのを忘れていましたが、やはり、一つには「思想」一般が与えられた枠組みの中で考えているのに対し、哲学は枠組み自体を思考の対象にするものだという所だと思います。

また長くなってしまいました。
ご丁寧にお読み頂き、コメント下さいまして、どうもありがとうございました。

2014/10/14 (Tue) 01:42 | EDIT | REPLY |   

ドナ夫  

こんばんは~。

哲学に関するお話、大変勉強になりました。
哲学は、思考や考え方を健全に保つための良い訓練になるのですね。
一方で、何かを明確に求めたり、救いを求めるのには向かないとのご考察、考えさせられるものがありました。

哲学に触れたと言えるのか分からないのですが、十代のころ、孔子や孟子、荀子、韓非子、墨子といった古代中国の思想家の本を読み漁った時期がありました。
人の性は善なのか、悪なのか、そこにとても興味があったからです。
それについては、未だもって結論は出ていないのですが、良い思考の糧とはなりました。

心身や感覚でつかみ取ったことと、思考のバランスを上手く取れたらいいなと思う今日この頃です。

お忙しいお体かと思いますが、示唆に富み、興味深いお話をまた伺えたら幸いです。

秋から冬へと陽気が移ろうなか、お体、ご自愛くださいね。

2014/10/15 (Wed) 00:38 | EDIT | REPLY |   

Ariane  

Re: ドナ夫様

ドナ夫様、こんにちは^^
お忙しいところ、ご丁寧なコメントを頂きまして、どうもありがとうございます。
興味深いと言って頂けると、大変励みになります。

哲学は一般的に、与えられた特定の目的を達成するためのノウハウとして役立つものではありませんし、宗教的な救いや悟りを得たり、何等かの心境を確立したりするためのものでもありませんね~。
救いや悟りのためにあるのが、宗教的なお行で、それには結構、身体的な面が重要になってくるのではないか、という気がしています。
スピリチュアルな方法論も、きっといろいろあるのでしょうね!

ただ、思考力の不足が救いや悟りの妨げになることは、あると思います。
というのは、人は頑迷になったり、自分のイメージで何かを思い込んで、それから離れられなくなったりすることがあるからです。
たとえば、教祖の教えを、自分が間違った仕方で理解していても、それを正せなかったり・・・ということです。
下手をすると、的外れな方向に向けて努力していくことになります。
逆説的なようですが、思考を鍛えるということは、いつでも自分の思考を手放せるようになる、ということで、そういう事を繰り返しているうちに、だんだん思考から自由になれるということです。

「心身や感覚でつかみ取ったことと、思考のバランスを取る」というのは、とても大切な事だと思います!
というのは、何かを捉えるのは心や感覚だとしても、いかなる世界観も、考えも、意見も持たない人というのは、ありえないからで、必ず何らかの考えを形成しているはずだと思うのです。
そして、その時できた考え方やものの見方が、次に心や感覚で受け取ったものを解釈する際の土台になります。
その後の展開は、上の段落で書かせて頂いた具合になると思います。

ドナ夫様は、お若い頃、諸子百家をお読みになっていらしたのですね。
私はちょっと興味があったのは、老荘思想だったかもしれません。
善悪の問題は、難しいですね・・。
何を「善」や「悪」と定義するかという問題もあると思います。
でも、スピリチュアル的な思想では、人間の本性は「善」になる、ということはないのですか?(笑)

大変有益なコメントを頂きまして、どうもありがとうございました。
時節柄、ドナ夫様もどうぞお身体ご自愛くださいますように。

2014/10/15 (Wed) 11:15 | EDIT | REPLY |   

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