19
2012

制作について

CATEGORY考え事
クレー「さえずり機械」(1922)

パウル・クレー「さえずり機械」(1922年)。


先週、ある心理学系のサークルで、絵画というものを例に、芸術制作論についてお話をさせて頂きました。
非常に大雑把に簡単に言いますと、作家は制作に先立って、心の中に何かありありとしたビジョンを持つのであり、それとそっくりなものを作り出そうとして制作する、その際、そのビジョンそのものが自己を表現しようとする力を持ち、作家がそれにあずかる事が、いわゆるインスピレーションなのではないかということです。
そこで、そのような制作を行う時、作家は自己を超えた力で制作しているという感覚を持つものではないか、というお話をさせて頂きました。
これに対して作家がパターン化された制作を行う時、そのビジョンを見ながら作るのではなく、自分が既に作ったものに倣って作るようになってしまうので、力のない作品になっていってしまうのです。
作家の苦労というものは、その目に見えない心の領域に、眼差しを向け続けなければならないところだと思います。

後半、絵本作家でイラストレーターの方との対談もさせて頂いたのですが、その方も、そうしたビジョンを持たない時には、そもそも絵が描けない、全く絵にならない、ということをおっしゃっていました。
また、会場にいらした数学者の方から、数学の場合も同じことが言えるのだというご指摘を受け、大変興味深いと思いました。

芸術制作と言えるようなものではないわけですが、アクセサリーを作る時も、私は作る前にビジョンを持って作ります。はやりビジョンがないと、作っている間中、迷いばかり出てきてしまいます。

こちらのブログを見つけて、フィルダリアーヌのお客様になってくださった方が、その講演をネットで見つけてご来場くださり、とても嬉しく思いました。
それはピアニストの方なのですが、会の終了後に、有益なご指摘を頂きました。
つまり、音楽の演奏の場合、ある時一挙にそうしたビジョンを見るというより、次々に引き出しを開けていくようなところがある、ということでした。
その時は<演奏>といったことを想定していなかったので、どうお答えして良いのかよく分からなかったのですが、後から考えてみまして、絵画のような何もない所から作り出す制作と、演奏のような再現芸術とでは性格が異なるのかもしれないと思いました。
演奏のように能動的な活動ではありませんが、本の読解のような場合も、読む度に違った事に気付いたり、解釈が深まったりするものです。
明らかに間違っている解釈も当然ありますが、それぞれ異なっていても間違いではないというような、解釈の重層性もあり得るだろうと思います。

私は文章も書きますが、幸いよく読者の方から「よく分かった」とか「共感した」と言って頂くことがあります。
しかし、それらの方々が、何を分かり、何に共感してくださったのか、必ずしも私自身にはよく分かっていないかもしれません。
それぞれの方がご自身の文脈で、ご自身に必要な事を読み取ってくださっているような気がしますし、それで良いのだと思いますし、それしかないとも思います。
そうした意味では、書いて公表したものは、自分の手を離れているなぁ、と思います。



先週の講演は絵の解説というわけではなかったので、上の絵までパワーポイントでお見せすることはできませんでしたが、昔、クレーの絵からは大分影響を受けました。
私自身、ごく若い頃は芸術を目指したいという気持ちを持っていました。

『クレーの日記』という本がみすず書房から出ており、今回、数十年ぶりに見直しておりましたら、1916年の日記に、こんな事が書かれていました。

まず自己を全体のなかへ解消させてしまう。そしてはじめて隣人、同胞、万物と兄弟のようにまじわるのだ。こうして、私は真理そのものに達する。この世という理念は姿を消し、すべてを包む世界という考えがあらわれる。私の愛は無限の虚空にまで達する宗教的なものなのだ。・・・かずかずの迷いは消え去る。心理そのものに達したかのように、そこには沈黙があるばかりなのだ。「正しき教え」も「誤れる教え」もない。ただ無限の可能性がある。無限の可能性への信仰が、心のなかに、創造にはげむべく生き生きと脈打っている。・・・芸術とは、神の天地創造にあやかるものだ。神が創造したとき、偶然にゆだねることなどあったであろうか。



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